宮下建設工業の歩み

  1. 会社の設立、作業手段
  2. 家庭・家族について、友人との出会い作業手段
  3. 社屋完成、社名の変更
  4. 仕事の移り変わり、県知事賞受賞
  5. 箱物への展開と自信、社内の充実
  6. 総合建設業への躍進、地域社会と共に

仕事の移り変わり、県知事賞受賞


農免道路施工
新社屋建設の同年に資本金を200万円に増資、2年後の昭和46年には600万円、昭和50年には1,000万円と増資を行い業務の拡大を図った時期である。
当社は、本格的な建設業界の仲間入りを図るためにまず昭和45年に長野県建設業協会に入会をした。この協会に入会できたのは、尽力してくれた方々のおかげである。 これにより、地元大手建設会社からの仕事量も増え、又、伊那建設事務所等官公庁との取引も確実なものとなった。
仕事量が増える中、当社の骨格は土木業が中心であったが、何とか建築業にも本格的に参画を図るため、
前沢川堤防
今のヤマウラ(当時の山浦鉄工)さんに修行に行っていた私の弟である宮下勇を修行が終わると同時に入社させ、建築部門をまかせる事にした。 昭和47年のことである。又、弟の要望であった鉄骨工場を事務所横に建て基盤を固め、昭和48年、東都機械(株)中川工場新築を始めとし、土木(建設用石材含む)・建築の二本柱の確立ができたのである。 しかし、この頃の当社は、社内体制と建設会社としてのノウハウの面で大規模な物件を請負うには力不足であった。 このため、下請けしながらも勉強とノウハウの蓄積の時代でもあった。

私は常々思っていたことがある。それは建設業を営んでいく上で、県知事賞を受賞できる会社でなければ一人前の会社とは言えないのではないかということである。他の同業者に訪問した折、必ずといってよい程、県知事賞受賞の表彰状が飾られていた。
この表彰を受賞することを一つの目標とし、仕事面はもとより安全面にもより一層の取り組みを行った。また当時、売上高も7億強で推移しており、一つのはずみが欲しいと考えていたのも事実であった。
そして昭和63年、県道北林飯島線改良事業において、私が一つのハードルと考えていた県知事賞を建設部門で受賞することができた。私を含め役員・従業員全員で喜び合ったことを昨日の様に覚えている。
そして新たに土木部門・建築部門でも認められる工事をしようと誓ったのである。

  1. << 社屋完成、社名の変更
  2. 仕事の移り変わり、県知事賞受賞
  3. 箱物への展開と自信、社内の充実 >>

ページの先頭へ戻る