宮下建設工業の歩み

  1. 会社の設立、作業手段
  2. 家庭・家族について、友人との出会い作業手段
  3. 社屋完成、社名の変更
  4. 仕事の移り変わり、県知事賞受賞
  5. 箱物への展開と自信、社内の充実
  6. 総合建設業への躍進、地域社会と共に

家庭・家族について、友人との出会い作業手段

私の家は、はきもの屋を営んでいた。普通であれば、学校を卒業し家業を継ぐのが常であるが、食うや食わずの日々の暮らしであったため、卒業後、今の建設省の資材倉庫にて倉庫番の仕事をしていた。周囲の方々からも、このまま役所で働けばとも言われたが、はずかしい話、背広一着も買える状況ではなく、石工職人の道を選んだ。

石工職人として師匠離れをした後、私は、奈良・京都・和歌山などへ出稼ぎとして行っていた。当時22~23才であったが、家に35,000円という金額を仕送りしなければならず、手紙を書く余裕もない程であった。余談ではあるが、関西方面では作業時に“ほおっかぶり”をする習慣などなく、私の姿を見て「かぼちゃつつみ」とか「頭かくし」などと言われ、からかわれた事を思い出す。

24才で中川村に戻り石工職人を始めたのであるが、私が29才、ちょうど宮下建設有限会社を設立した年に結婚をした。妻との縁は、私の妹達が岐阜県大垣市にある東亜紡績に働きに行っており、この会社の先輩であった今の妻を妹達が兄のお嫁さんにと薦めてくれたのがきっかけである。
今私があるのも、今は無き父母や、兄思いの兄弟がいたからこそと思い又、何ごとにも変えがたい財産でもある。


災害復旧工事
36災害復旧工事の際、私は石材運搬のため、大鹿まで行っていた。その時知り合ったのが大協建設の菅沼氏である。彼はのち大鹿村長になった人物であるが、おごることなく今でも親しくつきあっている。当時のことで思い出すのは、菅沼氏は、私ども下請への支払日には現場までメグロのオートバイに乗って来て現金で渡してくれた。このお金(お札)は、しわくちゃであり、私が思うところ苦労して用立ててくれたのであろう・・・と。また、隣村にあるシブキヤ建設の渋坂氏とも仕事を通じて親しくなり、私、菅沼氏、渋坂氏とよく3人で商売、特に銀行からの借入れ方法について検討し合ったものだ。

検討した件は実際に行ってみたりもしたが詳細については伏せておこう。しかし、金儲けは一朝一夕にはいかず、神だのみという理由ではないが、家族ぐるみで豊川稲荷におまいりに行ったりもした。なぜか、おまいりは3家族そろって毎年一回は行こうということになり、豊川稲荷だけでなく、善光寺や成田山まで行ったりした。

私自身言うのもはずかしいが、友人には恵まれていると思う。会社を設立後、元請会社が倒産し、当時で言えば多額の負債をかかえ資金に困っていた際、親身になって相談にのってくれ、自分の田畑や家を担保に入れ、お金を貸してくれた協力建材の富山氏や、今は、大協建設の社長である中村氏(当時現場代人であった)は、手形が落ちず、家族や社員に相談できず困っていた時、何も言わず立て替えてくれた。まだまだお世話になった友人は数えきれないが、今ある私と会社は、かけがえのない友人達のおかげで、成り立って来たと言っても過言ではないだろう。また、会社が資金面で苦しい時期、回りの方々のうわさ話では「宮下建設はもうダメらしい」とも言われていたが、こんな逆境にも耐え私をはげまし、がんばって働いてくれた従業員にも感謝したい。良い友人に恵まれた以上に、良い従業員に恵まれた時期であった。

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